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ラカン 患者との対話: 症例ジェラール、エディプスを超えて
サントームは自体愛なりや


片岡一竹



 ラカンは理論家であると共に、一人の分析家でもあった。だが彼の臨床がいかなるものであったかを知るのは容易ではない。彼は分析の直接的なテクニックを語ることを避けていたし、フロイトのようにまとまった症例研究を記すようなこともしていない。日本語文献でわずかにその姿が垣間見えるものとしては、ラカンのもとで分析を行っていた作家ピエール・レーによるエッセイ『ラカンのところで過ごした季節』(小笠原晋也訳、紀伊国屋書店、1994年)などがあったが、これはあくまで一患者による思い出話であるから、ある程度のバイアスがかかったものだった。神経症者の場合でさえこうなのだから、まして精神病者の臨床などはなおさら不明瞭である。精神病の病因(父の名の排除、分離の失敗、ボロメオの環のほどけ)などはわかっても、精神病に対して精神分析の臨床がいかなるアプローチを取ればよいかは分からない、という人も多いのではないか。
だがそのような状況は本書の刊行によって更新されるだろう。本書のメインを為すのはラカンがセミネールと並行して行ってきたサンタンヌ病院での病者提示(専門家の前で行われる公開診察)のうち、1976年2月に行われたジェラール・ルカという精神病者との対話の記録である。本書では患者とラカンの対話がすべて収録されており、患者のパロールに対して逐次ラカンがどう介入したかを直接的に知ることができる。また第三幕ではこうしたラカンの解釈に対する編者の解説も収録されており、精神病に対する精神分析の臨床が何を目指すかが明確に解説されている。
 診察を行ったジェラールについて、ラカンはフロイト的精神病に対するラカン的精神病の典型例と述べている。ラカン的精神病とは何だろうか。編者はそれを70年代のサントーム理論で表される軽症化した内省型精神病に求めており、第二幕では前期ラカンの精神病理論(それは古典的な非内省型精神病を説明する)と、後期のボロメオ結び理論の違いが解説される。当初ラカンは精神病を父の名の排除によって語ろうとした。父の名とは象徴界を統御するシニフィアンで、それは母子の鏡像段階的な双数関係に象徴的父が介入することで主体に導入される。ここで父は象徴的ファルスの場を指し示し、患者の異性愛的セクシュアリティが決定される。しかし精神病的主体においては、一旦は鏡像段階が通過されるものの、この象徴的父≒父の名が機能しておらず、そのために患者は妄想という想像的手段によって父の名を補うことになる(パラノイア)。だがそれは父の名による統御とは異なる脆い方法であり、妄想体系が崩れるとスキゾフレニー的症状が現れ、自我が拡散するという鏡像段階以前への退行が生じる。またファルスが機能していないのでセクシュアリティの混乱も見られるという。一方ボロメオ結びによる後期ラカン理論において、スキゾフレニー的症状は現実界・象徴界・想像界の三つの環がバラバラにほどけてしまうゆえに生じるとされる。たとえば23巻『サントーム』で取り上げられているジョイスの小説には、同級生にリンチされながらも身体感覚がなくなってしまうというシーンが登場するが、これは身体イメージの場である想像界の環が抜け出てしまうというジョイス自身の症状を表している。こうした精神病的症状に対して、三つの環を結ぶための第四の環、つまりサントームが必要になる。ジョイスの場合はそれが彼の創作にあたり、ジョイスは書くことでボロメオの環を結びなおしたのだ。
こうしたラカン的精神病に対して精神分析が提供しうる解決策は、このサントームを造り出させることである。ジェラールもまた詩作を行っており、ラカンは彼がこの詩作によって自我の拡散を食い止め、ボロメオの環を結びなおすことができるように導こうとしている、と編者は解説している。
 だが、ここで理論的にはやや難点がある。本書は70年代ラカンのボロメオの環の理論を中心に据えているが、それにもかかわらず、本文中にボロメオの環の図が出てくることはない。そのために、「ボロメオの環がほどける」という状況が、曖昧なままになってしまっている。前述したように、ジョイスにおいては想像界の環の脱落が観察される。この脱落の原因は何かというと、象徴界の環の結び目が切れてしまっているからだ。そして彼が補修したのはこの結び目の欠陥だったのである。それでは、その他の環(例えば想像界や現実界など)が切れた場合にどうするのかについては、実はラカンも語っていない。ジェラールの症例において、ボロメオの環のどこに欠陥が生じ、またいかにしてそれを埋めることができるのか、という問題が本書では語られていない。しかし、ジョイスの例をそのままジェラールに応用してよいかどうかは慎重に考えなければならない事柄である。
 また本書では一貫してサントームが自体愛的なものとして語られており、その例としてジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の理解不能な言葉遊びが挙げられている(144頁)。しかしジョイスは、編者のいうように「読者の目を見事なまでに無視して」(同)いたのではなく、自分の創作が大学人にとっての永遠の研究テーマたらんことを欲していたと、ラカン自身が述べている(S23: 163)。つまりジョイスは一般的な読者を無視したのにすぎず、大学人という大他者に承認されることを求めていたのだ、このように大他者はジョイスのサントームにおいて重要な位置を占めているのである。そのことに言及せずにサントームをただ自体愛的なものと見なすのは議論の飛躍であろう。ジョイスの作品は、彼の願い通り現在でも研究が行われており、その意味では大他者からの承認が果たされたと考えられるが、一方ジェラールの作品においてもこうした承認が成立していたかどうかは触れられていない。しかしそれは瑣末な問題ではないのである。
 扱われているテーマに比して、本書は全170頁と短く、また初学者への配慮のためか、挙げられた問題が検討されているとは言い難い。たとえば精神病者にはファルス機能の欠陥により性別の混乱が見受けられると述べられているが、これが神経症的な混乱(ヒステリー者に見られるような)といかに異なるかが説明されていない。また、ボロメオの環の理論とエディプス・コンプレクスによる主体形成理論のみが対置されているが、この図式では60年代ラカン理論の位置づけが不明になる。すでに60年代に疎外と分離の理論の導入によって、エディプス神話によらない主体形成理論が語られ、精神病が分離の失敗として捉えられるようになっていたのだが、それは本書のパースペクティヴではいかに捉えられるのだろうか。
このように本書には議論が不十分な点や過度な簡略化を行っている点も見受けられる。しかし今は過度な要求をせず、精神分析という営みを本邦でも根付かせようとする編者の意思を汲み取るべきだろう。エピローグではラカンの日本論が紹介されており、本書で紹介された精神病のサントーム理論と日本的状況の親和性が語られている。その議論に賛同するかどうかはともかく、精神病の臨床がこれ以上なく詳細に語られた本書が、多くの臨床家、また精神分析を学ぶものにとって、無視できない重要な文献であることは確かである。
2016/10/12(水) 23:09 ラカン関連テクスト PERMALINK
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