スポンサードリンク
子供を主体として信頼すること
片岡一竹
エディプス・コンプレクスを初めとした家族神話は、フロイトが精神分析理論の中核を成すものとして導入した概念だが、同時に最も多くの批判にさらされてきた理論でもある。事実ラカン自身、60年代には疎外と分離の図式によって、エディプス的父や母という神話的概念を用いずに主体形成理論を考えるようになったし、70年代には父の名に代わってサントームの理論が導入された。しかしそうであっても、実際の分析において、患者とその家族の関係が重要なものとして浮かび上がってくる事実の多さに変わりはない。特に本書で扱われているような子供の症例においては尚更である。
フランスで活躍する児童分析家・アニー・コルディエによって書かれた本書『劣等生は存在しない』は、こうした子供の症例に対するラカン的精神分析のアプローチを、豊かな例によって提示する。主な対象となるのが「おちこぼれ」と言われ、精神薄弱(débile. 現在の私たちには「知的障害」という言葉の方が親しいだろう)と診断され、特殊学級に送られるような子供たちである。
彼らを診断しても、決してすべての面において知能が遅れているという事実は観察されない。むしろいくつかの面においては、常人と同じかそれ以上の能力を発揮することもある。つまり彼らは決して「知恵おくれ」ではないのだ。では、なぜ彼らは学校の勉強に着いていくことができず、おちこぼれの境遇に甘んじてしまうのか。そこにはある制止、つまり知的欲動の制止が働いている。どういうことか。本誌の読者はご存知のように、主体は最初、母親のファンタスムにおける対象aの位置に置かれ、母親の想像的ファルスとなって彼女の要請を満たす。だがやがてその危険な状態から脱するために大他者の中にひとつの穴が穿たれ、主体がそこに自らの位置を見出す、という分離の作業が行われなければならない。しかしこの作業が完全に上手くいくことはなく、それゆえに神経症的症状が生まれるのだ。
分離が不完全になり躓く理由にはいくつか挙げられているが、ひとつは分離に必要な対象aの抽出に伴う喪の作業、つまり子供時代はもう戻ってこないということを主体が受け入れるための喪の作業にまつわる制止であり、また重要なのは、母親が自らのファンタスムに子供を閉じ込めてしまうゆえに生じる症状である。ここにおいて知的制止は、拒食症の病理と構造を同じくする。拒食症者は、「食べなさい」という母親の要請に縛り付けられた状態から脱するために「無を食べる」ことで、自分と母親が異なる主体であることを主張するのであるが、「おちこぼれ」もまた、両親の「よい子でいなさい」という要請があまりに過大であるため、「無を知ろうとする」のだ。すなわちここで両親に欠けているのは、子供を意識的・能動的な主体に導くような命令である。わが国においては、一昔前に話題になった「教育ママ」をイメージするのがよいかもしれない。教育熱心であるようにみえて、その実、いつまでも子供を自分でコントロールしようとするような母親である。こうして母親の欲望を満たす対象に縛り付けられ子供は、本来いくら能力があっても、その対象の地位から脱するために学ぶことを止めるのである。
本書ではこうしたコンセプトを基に、「おちこぼれ」の精神病理について多方面の分析が加えられている。特に注目したいのが第Ⅱ部の「症例」であり、そこでは落ちこぼれや不良と診断された子供たちに著者が行った分析の記録が五人分収録されている。これらの症例は、いかに子供の神経症的症状が家族コンプレクスに基づいているかを鮮やかに映し出してくれるものであり、さらにそうした状況に対して精神分析がいかに介入できるかが明確に述べられている。またそれと同時に、著者が用いるいくらか独自的な臨床的方法もまた、実際に臨床にあたっている人々にとっては大いに参考になるだろう。ラカン的精神分析ではキャビネの上での自由連想法のみを用いることが通例であるが、この著者は絵画療法や粘土による創作なども効果的に用いながら治療を進めている。これは著者の専門が児童分析であるという事情が大きいが、こうした応用的な技法においても重要なのはやはり言語の作用であり、著者が患者の非言語的な活動からいかに言語的作用を汲み取っているかは注目に値する。子供に対するラカン的精神分析が用いる技法については、近年わが国でも試行錯誤が進んでいるところであるから、これは現在ますます重要になっていると考えられよう。
また著者の主張で注目に値するのは、問題となる子供だけでなくその両親も同時に分析されなければならないというものだ。これは前出したように、子供の症状が両親のファンタスムと密接不可分な関係を持っていることに起因している。本書でも挙げられているラカンの言葉を引けば、「子供の症状は家族構造における症状的なものに応えるものである」。それゆえ子供の分析は、同時にその家族も射程に含んでいなければならない。もちろん分析的関係は外部から独立していなければならないという基本方針は遵守されており、著者も適宜両親を退出させたうえで子供の分析を行っている。このように著者はラカン的精神分析の基本方針に反しない限りで応用的技法を用いており、それは、ともすれば原理主義的になりがちなラカン派分析家にとっても参考になるだろう。
本書ではまた、精神分析の外部とのつながりにも目が向けられている。著者が受け持った患者にも他の小児科医や再教育士などから紹介された例が少なからず存在し、また分析の途中で患者を教師が受け持つ教師が分析家の処に相談に来るというような事例もある。これは教育や医療の制度と精神分析が密接なかかわりを持ったフランス社会の事情に拠っており、現在の日本の教育現場で精神分析(とくにラカン派のそれ)がここまで活躍することは難しいだろうが、ひとつのモデルを与えてくれることは確かである。それゆえ、本書は精神分析を知らぬ多くの人にも読んでほしい一冊である。
だがそこで本書には少し欠点がある。というのも、本書は初心者には少しばかり難しいのだ。もちろん個々の記述は極めて簡明であり、少なからぬ人がラカン派に抱く秘教的なイメージのようなものは全く見受けられない。だが「ファンタスム」、「リビード経済」、「口唇的欲動」、「シニフィアン連鎖」などのラカン的タームが何の説明もなく用いられており、一応訳注で解説されているものの、それも少し言葉足らずという印象を受ける(むしろここまでラカン的な本がベストセラーになったフランスたるや)。また理論的にもやや難点があり、例えば70年代の概念であるララングが50年代的なシニフィアン理論に組み込まれて解説されているほか、現在では分離の失敗――それは神経症的な分離の「不完全さ」とは異なる――として扱われる精神病が疎外の失敗のように語られており、それゆえ自閉症との構造的区別がつけにくくなっている。だが最後に、ラカン理論をある程度改変しているとの旨を著者が述べているため、この点はそれほど非難には値しないだろう。
このように本書にはいささか欠点もあり、初心者に手放しで薦めることはできかねる。だが他の本などである程度の予習をこなしておけば、本書の記述はむしろ混乱したラカン理論を明確に位置付けてくれるだろう。精神分析とその外部領域が結ぶべき関係の重要性がますます注目されるようになってきた今こそ、読み直されるべき一冊である。
サントームは自体愛なりや
片岡一竹
ラカンは理論家であると共に、一人の分析家でもあった。だが彼の臨床がいかなるものであったかを知るのは容易ではない。彼は分析の直接的なテクニックを語ることを避けていたし、フロイトのようにまとまった症例研究を記すようなこともしていない。日本語文献でわずかにその姿が垣間見えるものとしては、ラカンのもとで分析を行っていた作家ピエール・レーによるエッセイ『ラカンのところで過ごした季節』(小笠原晋也訳、紀伊国屋書店、1994年)などがあったが、これはあくまで一患者による思い出話であるから、ある程度のバイアスがかかったものだった。神経症者の場合でさえこうなのだから、まして精神病者の臨床などはなおさら不明瞭である。精神病の病因(父の名の排除、分離の失敗、ボロメオの環のほどけ)などはわかっても、精神病に対して精神分析の臨床がいかなるアプローチを取ればよいかは分からない、という人も多いのではないか。
だがそのような状況は本書の刊行によって更新されるだろう。本書のメインを為すのはラカンがセミネールと並行して行ってきたサンタンヌ病院での病者提示(専門家の前で行われる公開診察)のうち、1976年2月に行われたジェラール・ルカという精神病者との対話の記録である。本書では患者とラカンの対話がすべて収録されており、患者のパロールに対して逐次ラカンがどう介入したかを直接的に知ることができる。また第三幕ではこうしたラカンの解釈に対する編者の解説も収録されており、精神病に対する精神分析の臨床が何を目指すかが明確に解説されている。
診察を行ったジェラールについて、ラカンはフロイト的精神病に対するラカン的精神病の典型例と述べている。ラカン的精神病とは何だろうか。編者はそれを70年代のサントーム理論で表される軽症化した内省型精神病に求めており、第二幕では前期ラカンの精神病理論(それは古典的な非内省型精神病を説明する)と、後期のボロメオ結び理論の違いが解説される。当初ラカンは精神病を父の名の排除によって語ろうとした。父の名とは象徴界を統御するシニフィアンで、それは母子の鏡像段階的な双数関係に象徴的父が介入することで主体に導入される。ここで父は象徴的ファルスの場を指し示し、患者の異性愛的セクシュアリティが決定される。しかし精神病的主体においては、一旦は鏡像段階が通過されるものの、この象徴的父≒父の名が機能しておらず、そのために患者は妄想という想像的手段によって父の名を補うことになる(パラノイア)。だがそれは父の名による統御とは異なる脆い方法であり、妄想体系が崩れるとスキゾフレニー的症状が現れ、自我が拡散するという鏡像段階以前への退行が生じる。またファルスが機能していないのでセクシュアリティの混乱も見られるという。一方ボロメオ結びによる後期ラカン理論において、スキゾフレニー的症状は現実界・象徴界・想像界の三つの環がバラバラにほどけてしまうゆえに生じるとされる。たとえば23巻『サントーム』で取り上げられているジョイスの小説には、同級生にリンチされながらも身体感覚がなくなってしまうというシーンが登場するが、これは身体イメージの場である想像界の環が抜け出てしまうというジョイス自身の症状を表している。こうした精神病的症状に対して、三つの環を結ぶための第四の環、つまりサントームが必要になる。ジョイスの場合はそれが彼の創作にあたり、ジョイスは書くことでボロメオの環を結びなおしたのだ。
こうしたラカン的精神病に対して精神分析が提供しうる解決策は、このサントームを造り出させることである。ジェラールもまた詩作を行っており、ラカンは彼がこの詩作によって自我の拡散を食い止め、ボロメオの環を結びなおすことができるように導こうとしている、と編者は解説している。
だが、ここで理論的にはやや難点がある。本書は70年代ラカンのボロメオの環の理論を中心に据えているが、それにもかかわらず、本文中にボロメオの環の図が出てくることはない。そのために、「ボロメオの環がほどける」という状況が、曖昧なままになってしまっている。前述したように、ジョイスにおいては想像界の環の脱落が観察される。この脱落の原因は何かというと、象徴界の環の結び目が切れてしまっているからだ。そして彼が補修したのはこの結び目の欠陥だったのである。それでは、その他の環(例えば想像界や現実界など)が切れた場合にどうするのかについては、実はラカンも語っていない。ジェラールの症例において、ボロメオの環のどこに欠陥が生じ、またいかにしてそれを埋めることができるのか、という問題が本書では語られていない。しかし、ジョイスの例をそのままジェラールに応用してよいかどうかは慎重に考えなければならない事柄である。
また本書では一貫してサントームが自体愛的なものとして語られており、その例としてジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の理解不能な言葉遊びが挙げられている(144頁)。しかしジョイスは、編者のいうように「読者の目を見事なまでに無視して」(同)いたのではなく、自分の創作が大学人にとっての永遠の研究テーマたらんことを欲していたと、ラカン自身が述べている(S23: 163)。つまりジョイスは一般的な読者を無視したのにすぎず、大学人という大他者に承認されることを求めていたのだ、このように大他者はジョイスのサントームにおいて重要な位置を占めているのである。そのことに言及せずにサントームをただ自体愛的なものと見なすのは議論の飛躍であろう。ジョイスの作品は、彼の願い通り現在でも研究が行われており、その意味では大他者からの承認が果たされたと考えられるが、一方ジェラールの作品においてもこうした承認が成立していたかどうかは触れられていない。しかしそれは瑣末な問題ではないのである。
扱われているテーマに比して、本書は全170頁と短く、また初学者への配慮のためか、挙げられた問題が検討されているとは言い難い。たとえば精神病者にはファルス機能の欠陥により性別の混乱が見受けられると述べられているが、これが神経症的な混乱(ヒステリー者に見られるような)といかに異なるかが説明されていない。また、ボロメオの環の理論とエディプス・コンプレクスによる主体形成理論のみが対置されているが、この図式では60年代ラカン理論の位置づけが不明になる。すでに60年代に疎外と分離の理論の導入によって、エディプス神話によらない主体形成理論が語られ、精神病が分離の失敗として捉えられるようになっていたのだが、それは本書のパースペクティヴではいかに捉えられるのだろうか。
このように本書には議論が不十分な点や過度な簡略化を行っている点も見受けられる。しかし今は過度な要求をせず、精神分析という営みを本邦でも根付かせようとする編者の意思を汲み取るべきだろう。エピローグではラカンの日本論が紹介されており、本書で紹介された精神病のサントーム理論と日本的状況の親和性が語られている。その議論に賛同するかどうかはともかく、精神病の臨床がこれ以上なく詳細に語られた本書が、多くの臨床家、また精神分析を学ぶものにとって、無視できない重要な文献であることは確かである。
スポンサードリンク