このテクストはある演題募集に応募したけれど通らなかったものです。紙面が限られていたので説明の足らないところもあると思いますが、ヒステリーというものの理解の手がかりにはなると思いますので、参考にしていただきたいと思いコラムに載せることにしました。
エジプト時代の文献にも見られるように、ヒステリーは最も古くから知られている「病気」である。しかし、それにも拘わらずヒステリーの医学的地位については、現在まで明確にされていない。とりわけ現代では、ヒステリーは消失したとさえ言われているのであるから、ヒステリーがまともに取りあげられることさえ少なくなっている。だが、ペニシリンなどの特効薬が発明されたのならまだしも、太古の時代から存在する病が現代になって突然無くなるということがあるのだろうか。もしそうだとしたらそれはなぜだろうか。
ヒステリーは時代によってまったく異なった扱いを受けてきた。西欧におけるヒステリーの歴史の中では、まずエジプト~ギリシャ時代には子宮から生じる女性特有の病だとされ医学的に扱われていた。中世では宗教が医学に取り代わるようになる。神と悪魔の戦いが女性の体の中で行われ、悪魔を追い払うにはエクゾシストの祈祷を必要とするのだ。その後、教会の権威が失われヒステリーは再び医学の手に戻っていく。その代表とも言えるシャルコーは男性ヒステリーを認め、またヒステリーと暗示の関係が強調された。
その後に来るのがフロイト、そして精神分析である。そもそも精神分析の誕生はフロイトとヒステリーの出会いによってなされたのであり、精神分析の中心的技法である自由連想もヒステリー患者の提案を下に考え出された。当時ヒステリーはシャルコーによって医学的に取り扱われていたが、フロイトはそれを脱医学化させたと言ってもよいであろう。フロイトによるヒステリーの脱医学化とは何を指すものだろうか。
それはまずフロイトが、治療者として患者を治療しようという、医者としての支配者的な立場を捨てて、逆にヒステリー患者の言うことにしたがって話を聞き、ヒステリーから何かを学ぼうとしたことだ。支配者的立場を捨てるのは、同時に、ほとんどの医学的治療の場で作用する暗示による治療効果に頼らないことにもなる。
フロイトは患者の言うことを信じ、そこには必ず真理が含まれていると考えた。だが、医学で必要なのは病気についての情報であり、真理は必要のないものである。これは精神分析がまさに真理と呼ばれる主体的領域の問題を扱うもので、病という言葉では捉えられないところにあることを示している。ヒステリー患者は自分でも知らないところにある真理によって苦しめられるのであり、それを明らかにすれが「病」から解放されるとフロイトは考える。それは忘れられた記憶であり、ある記憶が事後的に姿を変えて意識世界に戻ってくるのだ。患者にとってそれは想い出したくない記憶であり、同時に意志とは関係ない場から戻ってこようとする記憶である。フロイトはこの考えから無意識というものを想定し、また無意識の主体を想定する。ヒステリーが症状で悩む姿は、このように、無意識から出てこようとする主体と、それにたいして完全に無知のままでいようとする主体とのあいだのの葛藤として取りあげられる。ゆえにそこでは、主体は分裂しており、無意識的主体がはっきりと認めらるのだ。これは単に非医学化というだけではなく、非心理学化とさえ言える考えである。なぜなら、心理学的な主体とはエゴのように常に、自律性を持ち、統一された主体だからである。
また治療という面では、ヒステリーにたいする精神分析的治療は、何の薬物も使わず、フロイトがヒステリー患者そのものから学んだ自由連想法という、ただ言葉だけを仲介になされる手段である。
こうした点がフロイトがヒステリーを脱医学化したというゆえんである。
フロイトが活躍していた頃は精神分析はヒステリーと共に歩んでいたが、彼の没後、精神分析は徐々にヒステリーから遠ざかっていった。それとともに、精神医学においてもそれまでの典型的なヒステリーの希薄化によって、ヒステリーの存在自体が疑われるようになる。現代では精神医学のマニュアル化が進み、精神疾患は原因ではなく症状で分類され、DSMではヒステリーという病名はもはや扱われず、解離性障害、身体表現性障害、パニック障害、摂食障害などの個別の症状の次元で扱われるようになっている。このことは一方ではヒステリーが再び医学化したとも言えるし、またヒステリーという疾患単位が無くなるのであるから、医学から完全に離れてしまったとも言えるだろう。
ヒステリーとはこのように実体を掴むことの困難な概念であり、ヒステリーとは何かという問いそのものがヒステリーの中心的な問題となるのだ。
現代の精神分析の諸潮流のなかで、ヒステリーをもっとも重要視しているのはラカン派であろう。紙面が限られているので近似的な表現にならざるを得ないが、ここでラカンのヒステリー論を考察する中でヒステリーとは何かを明らかにしていきたい。
ラカンはまずフロイトへの回帰というスローガンをもって精神分析理論を展開していった。その方法は、言語学を利用して、フロイトの諸理論にたいする根源的な再考察を行い、精神分析の理論化を図るというものであった。
そもそもラカンは、最初から主体を分裂したものだと考えていた。ラカンの最初の理論化とも言える有名な鏡像段階では、鏡の中の像は統一された完全な身体像として理想像となり自我Moiの根幹を構成する。一方、未熟な状態にある私Jeとしての主体は自らの主体的混乱を弁証法的に解消し、Moiに到達しようとするするのだが、JeはMoiに完全に到達することはなく常に漸近線的な接近に終わるのだ。ここでは主体がイメージを巡ってJeとMoiに分裂したものだとして考えられている。
つぎにラカンは言語学的考察を下に主体を考えようとする。彼の理論展開は、人間が言語世界に入っていくことによって必然的に主体は分裂したものとして生まれるというものである。つまり主体は、言語世界にはいることによって言語的存在-名前、肩書き、性別、職業などを-獲得し、言語世界のなかで顔を持った意識的な主体となるが、他方では、書き込まれた言語的存在と書かれる場所である現実的存在の間に、数学で言う空集合のようなギャップが生じ、言語的存在を持たない主体が生じる。後者は自らの名前、シニフィアンを持っていないもので、自らの存在が欠如し、存在を求める主体として、ラカンは斜線を引かれたSと名付ける。ここでは意識的、自我的な存在と、無意識的な存在欠如という形で主体の分裂が考えられている。
ヒステリーとはこの存在欠如としての主体が、自らの存在を求めて真理というかたちで意識的、自我的な世界に姿を変えて介入することである。存在を獲得しようという動きは、二つのものに要約される神経症の問いとして現れる。ひとつは私は生きているのか死んでいるのかという問い、もう一つは私は女なのか男なのかという問いで、それぞれの問いに神経症の形態が対応する。前者は強迫神経症的、後者はヒステリーである。しかしそこには二種類の構造があるのではなく、双方共にヒステリーだと考えられる。このように見たときの強迫神経症はヒステリーの一種の方言だと考えられているのだ。
ヒステリーというのはそれゆえに主体の分裂そのものを示すものと言える。後にラカンは、主体の分裂としてのヒステリーをもとに、一つの社会関係として「ヒステリーのディスクール」というものを理論化した。次のような式で表されるものである。
S/ → S1
a // S2
S/は斜線を引かれた主体で、これは支配者的シニフィアンであるS1にたいして、自分の苦しみのもとになっている真理aについての説明を求めて問いかける。そこでS1の位置に置かれた者は一つの知S2を創りだして返答しようとするのだが、それはヒステリーの真理の位置に置かれた享楽を説明することはできないままに終わり、ヒステリーの問いは続けられるというものである。
この図式から、ヒステリー者が僧侶、医者、政治家など社会における父親的、支配者的立場に置かれる人たちと関係を持とうとする理由が説明される。父親的、支配者的な人たちはヒステリーの問いに答え持っている者と見なされ、彼らにたいしてさまざまな難問が出されるのだ。ヒステリー者はさまざまな症状を携えて医者を訪れるのだが、あらゆる検査をくり返しても原因はわからないままに終わる。医者が支配者的な態度を取り、問題を解決する能力を誇示すればするほど、ますます解決不能な問題が出され困難な状況に陥るのである。
父親的な立場に立つ人は、その結果、自らの無能さを露呈することになるのだが、このように、いわば去勢された父親はヒステリー者が自らの存在を確保するために愛される存在でもある。不能な父親を支えることを存在の根拠とするのだ。
こうしてみると、ヒステリーはもはやひとつの病とは言えないであろう。それは主体の存在、いやむしろ存在欠如そのものであり、自らの存在を求めて、その時代時代で支配者的な姿をとる者と関わっていこうとする行為の表れである。ヒステリーが時代によってまったく姿を変えるのは、自らが置かれた社会におけるS1の姿の変化にカメレオンのように対応しているからである。現代においてシャルコーの時代にあったような大ヒステリー症状はもはや出てこない。現代のヒステリーはむしろ科学的手段ですべてを解決しようとする医学にたいして、いかなる科学的検査をも無効にしてしまうような症状を持ち出すというものとなる。
こうした意味でヒステリーは決して無くなることはないであろう。ただ、現代医学にとっては決して見えない存在なのである。そしてそれに対処できるのは、ヒステリーによって生みだされた精神分析だけである。したがって、DSMのようにヒステリーを否定することは、精神分析を否定することなのだ。
(旧サイトからの転載)
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