ある人に送った手紙のために書いた文章からの抜粋。
結局、長すぎると判断してまるごと削ったのですが、せっかく書いたのでここにアップします。(筆者)
……白状すれば、私はガタリ自身についてはいくつかの短いテキストやパンフレットなどを読んだことがある程度で、とても包括的に理解しているとは言えませんし、『機械状無意識』などの著作での複雑怪奇な記号論は手を付けられないといったところであります。
それでも、漠然とガタリが読めるように思えるのは、ガタリとラカンの両者が特異性のテーマというものを中心化しているためだと思います。
特異性というのは、精神分析の臨床を行う上での指標となるもの(むしろそれは、指標のなさという「指標」ですが)で、分析の目的とは、患者の自我を強化してを環境に適応させることなどではなく、無意識を主体的なものとして受け入れ、そこから特異的な解決を見出していくことです。そのため、精神分析は画一的な技法に頼らず、それぞれの分析経験を特異なものとして扱わなければなりません。ここから臨床家は、臨床に際してはそれまで学んだ理論をすべて忘れ、まったく新しいところから分析を始めなければならないとされます。
ところで、ガタリは晩年の『三つのエコロジー』においてこれと同じようなことを語っています。その議論によれば、精神分析関連の実戦で重要なのは何事もつねに作り直し、ゼロからのやり直しを繰り返すことであるとされます(平凡社ライブラリー版、27頁)。これはラカン的な精神分析の考え方とほぼ同じもので、一つの分析が終わるときには新たな精神分析が誕生すると考えられています。またガタリはこうした実践を芸術的な創造として考えていますが、晩年のラカンも、ジョイスなどを検討しながら、精神分析実践を「科学」ではなく「芸術」として考えようとしました。
こういったところからは、両者の教育活動(enseignement)は決して、かつて言われていたように相反するものではなく、むしろ部分的にはまったく重なるものであると考えたくなります。つまり自らの実践のゴールを特異的な創造として考える点で、両者に違いはないと思います。
しかし、同時にここで両者の相違点が明らかになってきます。すなわち、特異性の扱い方は、ガタリとラカンではなかなかに異なっているのです。
ガタリにおける特異性は、むしろ「特異化」と呼ぶべきような、プロセスとして把握されているように思われます。つまり絶えず逃走線を引いて、別のアレンジメントへ移行しつづけていくような横断の繰り返しにおいてこそ、特異化が実現されるということです。このように、ガタリはあくまで「過程」を第一に考えています。さらにガタリが考えるsubjectivityは、決して一人の個人に限定されるものではありません。
一方ラカンにおける特異性は、あくまで個人としてのその主体にとって特異なもので、さらにそこには「起源」という性格が見て取れます。つまり主体が初めて〈他者〉というものに出会ったときに生じる原初的なトラウマの出来事においてこそ、特異性というものが介入すると考えられています。このトラウマの出来事はもろもろの症状の根っ子(サントーム)を形作り、その根っ子を見出してそれに同一化するというのが精神分析の目的です。
特異性、という問題はある時期(以降)におけるフランス現代思想に共通するテーマであると思いますが、ラカンにおける特異性の特徴は、やはりそれを起源的なものと結びつけるということにあると思います。例えば、個人的なことで恐縮ですが、私は今度のコロックのためにラカンとバディウの関係を今考えております。そこでわかったのは、ラカンの「トラウマ」とバディウの「出来事」は、両者とも状況の言語が語りえないような過剰にして空虚であり、自己参照的なものであるという点で、極めて近しいものだということです。しかしバディウが出来事を、状況への追加(代補)supplémentと考えるのに対し、ラカンはもろもろのトラウマ=出来事を、主体の身体と言語の出会いという原初的なトラウマ=出来事へと帰着させます。まさにこの点で、両者は離反します。このように、ラカンの特異性とその他の思想家のそれを引き合わせようとすると、結局、ラカンの特異性が起源的な出来事(「身体と言語の出会い」)に帰着するところで、往々にして両者は相いれなくなります。
結局、原初的な特異性を生み出すような、「身体と言語の出会い」こそ、ラカンの賭けであるように思われます。それは、「現実的なもの」によって一貫性を失った〈他者〉に対して、確かに充溢した〈一者〉として、晩年のラカンが追求したものです。そしてそれは同時に、精神分析実践の基盤となる最終的なものなのでしょう。そこにこそ、相容れなさとしてのラカン理論の「特異性」があるように思います。
議論が横道にそれてしまいましたが、したがってガタリについて、特異性をテーマにするという点でラカンと同じ匂いを感じながらも、「過程」を重視するその実践においては、やはり相容れなさを感じるというのが私の感想であります。
それはおそらく、精神分析実践と、分裂分析実践の差異でもあるのでしょう。換言すれば、本質的に「終わり」のない「過程」を重視するガタリの分裂分析に対して、ラカンの精神分析はその「終わり」を据えるのです(とはいえ、ひとつの分析が終わるときは、患者(分析主体)が新たな分析家になって、新たな分析が始まるときでもあり、その意味では精神分析もまた「終わりのない」ものですが・・・・・・)。
大変長くなってしまいまして失礼いたしました。お時間がございましたらご笑覧くださいませ。
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