コロックで松本卓也氏が現代ラカン派という言葉を使ったのにたいして、十川幸司氏は現代ラカン派など存在しないと批判していた。十川氏によると現在一線で活躍している人たちはジャック・アラン=ミレール、エリック・ローラン、マルヴァル、ソレール、メルマンなど皆もうかなりの年配であって、昔からいる人たちであるから現代ラカン派などとは呼べないし、また世界を見回しても現代ラカン派などを自認している学派はないという理由であった。
それにたいして私も自分の意見を述べようと思ったが発言する機会がなかったのでここで私の考えを述べてみたい。
ラカンは生前、自分の考えは50年経ったら理解されるようになるだろうと言っていた。ラカンが亡くなったのは1981年であるからまだ50年は経っていないのだが、ラカンの教育活動の理解は彼が考えていたよりも早く訪れたように思える。
というのもこれまでの一般的なラカンの受容は70年代以前の理論的構築をよりどころとしており欲望、無意識の主体、無意識は言語のように構造化されている、対象a、ファンタスム、etcなどの概念的道具を用いてなされていたのにたいして、最近のラカン派に人たちは70年代の後期、最後期のラカンに依拠している部分が多い。それは<他の>ジュイッサンス、サントームsinthome、言存在parletre、ボロメオの輪、ララング、etcなどのまったく違った概念群を使って精神分析の理論的把握を試みている。こうした試みこそが現代のラカン派の潮流である。この意味で現代ラカン派というのは確かに存在すると言えるのではないだろうか。そこで活躍しているのが年配の昔からいる人たちだというのはなにもこの潮流を以前のものと混同する理由にはならないであろう。
まだ年齢も若い松本氏はこうした潮流を敏感に感じ取り「現代ラカン派」という表現を使ったのであろう。コロックでは彼の世代、そしてもう一つ若い世代の人たちが新しいラカンの概念を使って発表していた。彼らこそが「現代ラカン派」にふさわしい人たちである。
向井雅明 2015/03/26
(旧サイトからの転載)
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